【予習】長崎聖地巡礼の旅
内田樹・釈徹宗「聖地巡礼リターンズ」長崎の章を巡る旅に行きたいと思っています。下調べとして記したいと思います。
長崎市公式観光ガイド (https://www.at-nagasaki.jp/)
ながさき旅ネット(https://www.nagasaki-tabinet.com/)
http://artworks-inter.net/ebook/?p=488
http://isidatami.sakura.ne.jp/
現在も続くこの秋の大祭・長崎くんちは、豪華絢爛・異国情緒たっぷりな祭りとして日本3大まつりの1つに数えられています。
現在の社殿は火災のため消失し、明治元年(1868)に復旧されたものです。楼門からの70余段つづく石段は見事なものであり、くんちのときは見物客でうまります。和洋中の文化が混在した長崎にあって、日本的な風情のある地域の1つです。
二十六聖人殉教地
豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘です。
キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者達がこの地を処刑の場に願い出たのだといわれており、二十六聖人の殉教以降も多くの人々が“火あぶり”“水責め”“穴吊り”といったむごい手段でもってこの地で処刑されました。
正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘が備えられたが、1945年、原爆で建物は破壊され、アンジェラスの鐘も鐘楼とともに崩れ落ちた。現在の建物は1959年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、1980年、レンガタイルで改装し、当時の姿に似せて復元された。周囲には被爆遺構の石像などが配され、今も原爆の爆風に耐えた一方のアンジェラスの鐘が時を告げている。
原爆落下中心地
大浦天主堂
カトリック黒崎教会
長崎市公式観光ガイド (https://www.at-nagasaki.jp/)
ながさき旅ネット(https://www.nagasaki-tabinet.com/)
http://artworks-inter.net/ebook/?p=488
http://isidatami.sakura.ne.jp/
春徳寺(トードス・オス・サントス教会堂跡)
当寺開山泰室清安は1650年梵鐘1口を造った。施主は枝村郎兵衛尉重勝,鋳工は江戸御花入屋閑人,銘は元1569年、大村純忠の家臣でキリシタン長崎甚左衛門がイエズス会に与えた土地に建った長崎で最初の教会堂。焼き討ちにあい、1603年、新しい教会堂が建てられた。禁教令後、春徳寺が建ち、教会時代の井戸が今も残る。龍頭巖
夫婦川町にある春徳寺の後山は、“城の古址(しろのこし)”と呼ばれている。そこは、「長崎」の名前の由来になったと言われる長崎甚左衛門純景(すみかげ)氏の城砦の跡がある。
諏訪神社
創建は寛永2年(1625)で、当時はキリスト教が広まり他教を排斥したため、市内の社寺は破壊されることが多く、肥前唐津の青木賢清が長崎奉行・長谷川権六に願い出て造営したものです。そして、寛永9年(1632年)青木が初代宮司になり、同11年(1634)から祭礼を行うようになりました。現在も続くこの秋の大祭・長崎くんちは、豪華絢爛・異国情緒たっぷりな祭りとして日本3大まつりの1つに数えられています。
現在の社殿は火災のため消失し、明治元年(1868)に復旧されたものです。楼門からの70余段つづく石段は見事なものであり、くんちのときは見物客でうまります。和洋中の文化が混在した長崎にあって、日本的な風情のある地域の1つです。
岬の道
東山手から新地中華街へとのびる階段道。かつては、遠く野母崎の「観音寺」に詣でるための街道で、江戸時代には小旅行の人気コースとして賑ったといわれる。サント・ドミンゴ教会跡資料館
1609年、ドミニコ会のモラレス神父は、鹿児島を逃れるとき教会堂を解体して、長崎代官・村山等安が寄進した土地に建てた。この時代の石畳や地下室、その後建てられた代官屋敷時代の井戸などが、小学校の建て直しの際の発掘ででてきた。長崎県庁
江戸期に長崎奉行所(西役所)があった場所。現在は長崎県庁。ペリー来航後、幕府がここに長崎海軍伝習所を設けた。日本海軍の発祥の地といえる。二十六聖人殉教地
豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘です。キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者達がこの地を処刑の場に願い出たのだといわれており、二十六聖人の殉教以降も多くの人々が“火あぶり”“水責め”“穴吊り”といったむごい手段でもってこの地で処刑されました。
浦上天主堂
浦上教会の建設計画は、1873年、キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た浦上の信徒達によって行なわれた。ところが資金がなかなか集まらず、20年余りの時を経た1895年、やっとフレノ神父の設計による教会の建設が開始し、1914年に東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式があげられた。正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘が備えられたが、1945年、原爆で建物は破壊され、アンジェラスの鐘も鐘楼とともに崩れ落ちた。現在の建物は1959年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、1980年、レンガタイルで改装し、当時の姿に似せて復元された。周囲には被爆遺構の石像などが配され、今も原爆の爆風に耐えた一方のアンジェラスの鐘が時を告げている。
原爆落下中心地
大浦天主堂
幕末の開国にともなって造成された長崎居留地の中に、在留外国人のために建設した中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の国内現存最古の教会。聖堂内を飾るステンドグラスには、約100年前のものもある。
直前に列聖されたばかりの日本二十六聖人に捧げられた教会で、正面は殉教の地である西坂に向けて建てられている。
設計指導者はフランス人宣教師のフューレ、プティジャンの両神父で、施工は天草の小山 秀之進(のちに、「秀(ひいで)と改名」)。1864年末に竣工し、翌年2月に祝別された。この直後の3月に、浦上の潜伏キリシタンが訪れ、信仰を告白したことにより、世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台となった。
1875年と1879年の増改築により、平面形式と外観デザインも変容し、外壁も木造からレンガ造に変更されたが、内部空間の主要部には創建当初の姿が保存されている。
また1933年に国宝となるが原爆で被害を受け、1953年、日本最古の現存教会建築として国宝に再度指定された。
山王神社と一本柱鳥居:被爆クスノキ
浦上のルルド
外海地区
「そとめぐり」
https://kyoukaigun.jp/ 長崎の教会群インフォメーションセンター
地図
「そとめぐり」からコピーさせて頂きました。