企救心理相談室店主の日記

日記、ラジオで聞いた話、メモなどです。

2020年4月15日の日記

TBS系列 森本毅郎「日本全国8時です」でコロナウィルスと薬の情報。
中国では漢方薬を治療に使ったそうだ。ただその漢方、日本では売られていない薬とのこと。

 

母が今日退院。迎えに行く。
この病院のNSはぽっちゃり体型の人が多くて良い。愛想も良い。
母、福岡の家に帰りたいと言う。心配した妻がうどんの食べっぷりを見て決めるというが、ペロッと食べてしまった。
妻が車で送っていく。同じことを何度も聞いたり認知の方が心配になったという。
案の定、22時ごろ電話がある。薬がないと慌てている(テーブル上のケースに入っていた)。

 

市役所の電話相談の仕事。
あるうつの人に「フラッシュバック」の概念を教える。
治療暦の長い人には年表を作って整理することを。
合間に中井先生の本。「認知症」。高齢者はストレスに弱いので急激な環境変化は避けたほうがいいと。

 

エスト。駅前で開いている唯一の本屋。1時間も居てしまった。
つげ義春日記」「アエラ」「怒りのセルフコントロール術」を買う。
アエラでは内田樹と岩田先生の対談。
岩田先生、今のところうまくいっている、と高評価だったが、これは4/3の対談。10日経った今では認識を改めているかもしれない。

 

毎日新聞夕刊。「与良の政談」は政治と想像力について。確かにコロナに対する政府の対応策は余りに想像力に欠けていると言わざるを得ない。
田中先生のコラムは石牟礼道子の「食べごしらえ」。食べごしらえはグルメとは違う。

 

「サバヨミ大作戦」。アメリカの出版業界の凄まじさ。

 

くしゃみ。妻もくしゃみと熱(7.4度)。漢方飲んで寝よう。

プチ介護日記 4/10

桜が散り始めている。今年の桜はあまり愛でられることがなかったが、終わるときが来たので仕方なく店じまいだ。シーズンが終わって片付けられる売れ残りのセーターを思う。

15時半くらいから電話が続く。昨日主治医が私に電話したけどつながらなかったと。(口調が島原弁になっている。) むっとしているようだと言っているがよくわからない。

今空いているので電話して欲しいと頼むが、10分前のことを忘れてしまう感じ。メモを取るよう話してようやくまとまる。

主治医から電話。現状の説明と診断のこと。本人は癌疑いと思ってないが、来週検査すると。

母親に伝えてメモをとってもらう。

兄から電話。メモに書いたことは伝わっている。

再び母親から電話。「癌の疑い? 先生が言ったの?」。<そう>と答えると「暗くなるね」と落ち込んでいた。

まだ「疑い」だけど、現実が大きかったか。

 

中井久夫「老年期認知症の精神病理をめぐって」

「つながり」の精神病理 中井久夫コレクション2 (ちくま学芸文庫) から
https://www.amazon.co.jp/dp/4480093621/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_tQCJEbHP9Z8R5

 

印象に残った言葉をいくつか抜粋したい。

 

◆「変化、経過があるほうがわれわれの知性が働く。」
 「時間的にも空間的にもひろがりと中身とがある対象が好ましい。」

 

◆「古い統合失調症患者には「プレコックス感」が消失すると書いている。おそらく統合失調症の人にとっても、年をとることは悪いことばかりではないのだろう。」

 

◆「リュムケという人は、オランダ人で、(中略)毎日、午後7時半から9時までは来客を待たせてでも二階に上がり、心配な患者に電話をかけ、また予約を取って電話で話をしたということである。(中略)彼の電話に支えられて生きていた老婦人の話も聞いた。半世紀前の話である。」

 

◆「医者とくに精神科医の目標を「できるだけ豊かで無理のない人生をまっとうするように援助すること」と定義すれば、十分はいるものだと思う。」

 

◆「老年の神経症については、(中略)長い歳月の労苦に対する評価が欠けているために(中略)神経症的機構が明らかとなり、急速に治癒していった例を思い出す。」
「引退した役人はよく「あの橋は自分が掛けた」「あの道は自分がつくった」という。」「それほどまでに人は、自己評価の維持のために他からの評価を取り込む必要がある生き物である。」

 

◆「老年期の敏感さは(中略)独自の恥への深い敏感さがある。」

 

◆「老年期認知症の進行を阻止する要因のいくつかは、意識を支える因子、意識障害からの回復の決め手因子と同じである。」「足底からの刺激すなわち起立歩行の重要性である。」「三叉神経からの刺激すなわち噛む運動や喋る運動の重要性である。」親しい者の死去は、耳慣れた音調の消失である。」

 

◆「権謀を中心とする者には個別的・密着的アプローチが有効であり、作話が前に出ている者は、仲間作りが重要」

 

◆「一般に内科医は、人生後半の病は、それまでの生活習慣の総決算であると考え、非常に詳細に既往歴を生活習慣中心に取るが、老年期認知症も、その目で見ると何かみえてきはしないか。」

 

プチ介護日記 4/7

4月6日

実家のガスを確認しに行った妻が2:30に帰る。神経が細いので先には寝られない。3時過ぎには母親が起きてくる。きついので寝ているふりして妻が対応。ようやく寝るが眠りが浅い。7時過ぎに起きたが眠い。

 

9時半北九州の大病院へ。「入院て言われたらどうしよう」と言っている。きつい、何とかして欲しいと言っていたのに現金なものだ。

 

予想以上にきれいな病院。新患なので1時間近く待たされる。途中いかめしい顔の60近い先生が出てきて、3人組の患者さんに「あなたたち付き添い? 付き添いは1人して。必要ない人はあっちで待って。ここの人数を減らしたい」と言って周っていた。

 

部長先生を期待していたが、若いS先生に。しかしこの先生が期待以上にgood。「ステントを入れているところの炎症だと思う」と手早く診断。口数は少ないけどわかりやすい。入院を直訴。認知症の検査もお願いした。

 

検査した後入院へ。外来の看護師が病棟に案内してくれた。しかしこの看護師、私を母の夫と勘違いするとは! マスクはしていたが、7~80代に見えるかな? 少しショックを受けた。

 

病棟は基本個室。ホテルみたい。病棟のM看護師は豊満なボディがgood。しかし今はコロナ対策で面会できないので、もう会えないかもしれない。残念。

 

個室の病室は必要なものを全部自分で揃えないといけない。幸い隣がショッピングセンターなのでダイソーなどで買い揃える。それにしてもハンドソープが売り切れとは。シャボン玉のソープだけ売れ残っていた。600円。守衛に買ってきたものを渡して帰宅。15時近くになる。

 

4月6日

午後から母親からの電話攻勢。

<昨日の荷物は受け取ったか?>ときくと、受け取ってないと。看護師さんも巻き込んで騒動に。

その後も電話。

金が2万5千円しかない。

この病院いやだ、もう出たい、<何が?>雰囲気がよくない、<どんな?>何となく。

また金がない、もう退院しないと、など。

せん妄だけど、とても疲れた。介護で追い詰められている人の気持ちがわかってきた感じ。

プチ介護日記 4/5

昨日は夕方に母親から電話があって、「保険の解約をしてほしい。私が死んだらわからなくなるから」と。声には力があったが…。

 

今朝早い時間に電話がある。今日何時に来るのか? 胃の辺りが痛い。早く来て欲しいとのこと。家のことはあまり犠牲にしたくなかったけど、出発を少し早める。

 

到着すると少しホッとしたようだが、まだきつそう。

 

息子が暇そうなので公園でキャッチボール。

桜が満開でかなりの人出。子どもさんが多かった。

身体を動かして気持ちよい。

 

帰って、母親が落ち着いてきたら出発しようと思い、

トイレに促すと、

目を白黒させて意識がなくなったよう。

慌てて119番に電話。

 

電話していると意識は戻ったので、救急車はキャンセル。

119の人から「大丈夫ですか? 何かあったらすぐ電話ください」と

念入りに言われる。

 

少しすると落ち着いたのでトイレに促すと失禁してしまったよう。

下の世話が大変で介護を導入する契機になるケースは多いかもしれない。

 

S病院の救急外来に連れて行く。

研修医のような若い医師。

かっこよくて優しい。最近の医師は変わったと思う。

 

心電図などとってもらう。

不整脈はなく、おそらく脱水などが原因だろうと。

帰っていいとのこと。本当によかった。

 

しばらくしてマンションに寄り、北九州に出発。

車中「迷惑かけるね。あんたたちがいなかったら野たれ死んでた」を何度繰り返したことか。

「もう死んだほうがいいと思うようになった」も言うようになった。

 

21時過ぎ、我が家へ着くと少し落ち着く。

運国際。便秘してたよう。

汚してはいなかった。

 

明日の準備やキャッシュカードを何度も確認して、「ない」と騒ぐ。

繰り返してようやく落ち着く。

 

今これを書いていたら、妻が「ガスを消したか不安になってきた」と青ざめた顔。

西部ガスに電話したが、遠隔では確認できないという。

妻、車を飛ばして福岡へ。

 

こういうときに限って面倒なことが起こる。

諸々の記録 4/3

4/1

福岡の大病院が小倉の大病院と連絡を取ってくれた。

診察日と私の勤務日が合わないと妻から連絡。

妻がっくり「燃え尽きた」。

 

帰宅して小倉の病院を再度調べる。

2箇所見つかった。

少しホッとする。

 

4/2

昼休み福岡の大病院にお礼と断りと新規の依頼の電話。

この日は元々仕事が少なかった上にキャンセルがあったので暇な一日。

仕事中に折り返し電話があった。

第二希望の病院と話がついた。

 

ところがその旨母親に電話すると「どうして北九州に行かないといけないのか」と怒っている。また月曜日の顛末はまったく覚えていない。

 

叔父や妻がとりなしてようやく母親が受診を承諾。

感謝。

 

4/3

妻が叔父に電話すると、昨日の夜から何も食べてないとのこと。

叔父に何か買ってきてくれと頼み、りんごを買っていったら、剥いてくれと頼んだという。

すっかり自分のことができなくなっている。

叔父も北九州行きに気持ちが傾いてきているよう。

介護が近くなってきたか。

プチ介護生活 4月1日 一旦終了

3月31日

朝から「もう帰る」と言って聞かない。

脳波の波が大きいみたいで朝は攻撃性が増す感じである。

 

この日は妻が休みを取ってくれた。少ししたら良くなって朝ごはんも食べたらしい。

 

大病院は曜日の関係で取りやめる。代わりに福岡、北九州の病院と連絡を取ってくれた。

 

Oクリニック受診。やにつけ医師「こんな処方俺にしかだせんけんね」と自慢していたとか。しかし薬を整理してくれ、うんと減らすことができた。

 

認知も好調。引き止める理由がなくなった。

 

4月1日

元気ではあるが大人しい。帰れるかなと不安になっていたらしい。

高速バスにトイレがついてないのも不安だそうで、紙おむつを履いていた。

 

何とか帰れた。

夕方、夜2回電話。気合は入っている。

 

妻から電話。かかりたいと思っていた病院とは曜日が合わないとのこと。帰ると落ち込んでいた。

 

他の病院の調査。2つ候補が見つかった。明日電話しよう。

 

少しホッとして音楽を聴く。ビリーホリデイ物語。